www.nikonikki.com
お友達が参加してくれたコンテンツ >> ニコたちリレー日記

第一回 性格は生まれつきのものか、成長過程で出来上がるのか?

by niko

リレーで何か書きましょう〜とお友達何人かに声をかけたときは、「まずは子供とか学校とか教育とかについて」などと言っていて、わりと具体的にイメージがあったのですが、いざ書こうとすると頭が真っ白になってしまいました。で、どうなるか分かりませんが、学生の頃よく考えていたことをちょっと書いてみようと思います。

まず、「性格は生まれたときに決まっているのか、成長の過程でできていくのか」。高校・大学時代に友達ともよくそれを話していましたが、記憶では「生まれつき派」と「成長過程派」は半々でした。私はその頃どっちなのか本当に分かりませんでしたが、いまでは「生まれつき持っている性質に、成長過程で受ける影響が加わって性格ができる」って思っています。

生まれつき何かを持っていると思うようになったキッカケは、あるとき見た双子を追ったドキュメンタリー。色んな原因で生まれてすぐに離ればなれになってしまって、遠く離れた場所でお互いの存在さえも知らずに育った双子を何組か取材したものでしたが、どの双子も趣味や行動パターンが気持ち悪いほど似ていました。ついでに肉体的な特徴も似ていたんだけど、それはここではおいておくとして、中年男性の双子はどっちも同じ科目(確か考古学)の教授だったし、10代の女の子の双子は使っているシャンプー・リンス、化粧品、好きな歌手、好きな服のブランド・・・みーんな同じでした。もちろん違った例もあったけれど、他人同士や血が繋がっていても歳が離れている兄弟姉妹に比べれば、信じられないほど似ていました。で、双子の不思議さに感心するやら驚くやらと同時に、生まれつき持っているものって変わらないんだな〜とつくづく思ったのです。

それと同時に、成長過程での影響がすごく大きいと実感しているのは、マウイに来て文化の違いを感じたからでしょうか・・・。日本人とかアメリカ人とひとことで言っても個々人の違いがあるのはもちろんですが、「傾向」を見ればやっぱり違う。日本人は社会に自分をどう順応させるかを考えるとすれば、アメリカ人は自分を社会でどう主張するかを考えるような・・・。日本人が聞くことを重視するのに対してアメリカ人は話すことを重視しているような。そういうことは、家庭や学校での躾や、自分のまわりの人たちの振る舞い方に影響される部分が大きいと思います。アメリカで育った日本人が日本人ぽくない、アメリカ人ぽい性格なのも、生まれつきアメリカ人の性格を持っていたのではなくて、成長過程でアメリカ人になったってことだと思うし・・・。

もちろん、日本人同士でも、成長過程でどういう経験をするか、どういう人から影響を受けるかで性格が変わっていくことは、自分と他の日本人を比べるまでもなく当然のことです。ただ、その違う個性の日本人二人を外国人と並べてみれば、日本人としての共通点があるはず、という程度のことなのですが。(でもその程度のことが、外国で生活してみると大きなことだったりします)

私が行った私立の高校は校則がなかなか厳しくて、抜き打ち服装検査があったり、校則に反して退学になる人がポロポロいたり、三年間を通して窮屈な思いをしました。「どうして校則がこんなに厳しくないといけないのか」と、よく友達とも話しました。まあ、平たく言えば、いつも校則に対して文句を言い合っていたんですね。とにかく、理由がどうしても分からないようなくだらない(と私には思える)校則がいくつもあったのです。うーん、例を思い出せるかなあ・・・。そうそう、男子生徒は制服のワイシャツの下にTシャツを着てはいけない、とか。なんか、ランニングみたいな、おじさんぽい下着を着ないといけませんでした。確か下着なしで直接ワイシャツを着るのもいけなかったような気がする。ね?なんでか分からないでしょう?(笑)

近くにあった私立高校はキリスト教系の帰国子女もいるような学校で、校内をスケートボードで移動してたりずいぶん自由に見えました。で、「私たちの学校だって天才集団じゃないけどみんな真面目にオベンキョウして入ってきてるんだし、校則をゆるくしたところで学校が荒れるとも考えにくい。もっと自由にしてもいいんじゃないか」というのが私の意見だったんだけど、ある友人は「うーん、ウチは校則ゆるくしたらダメになるでしょう」と言っていました。なんでだ(笑)。ただ、卒業するころには私の考えも少し変わっていて、結局あの校則のおかげで生徒も淘汰され、中にいる私たちは守られていた部分もあるんだなあ、と思うようになったのです。そういうことで守られるのが情けないような気もしたけど、中学時代に比べれば、ケンカを売る相手を常に探しているような集団に廊下で毎朝にらまれることもなかったし、平和だったな、と。それから、校則そのものよりも、決まりを守ることで自分が属す集団を安定させることを学ぶことが重要だったのかな、とも思いました。国語とか算数の授業だけが私たちが学校で受ける教育ではなくて、そういうのも教育なのかな、と・・・。

そういう教育を受けた私と、受けなかった人とでは、やっぱりどこか心理状態が違うように思うのです。もちろん、どっちがいいということではなく・・・。私は社会人になってからも常に「この会社のポリシーはどうなんだろう」「この会社でのやり方はどうなんだろう」というのが気になるので、転職した会社で自分がすでに知っていることをするときでも、まるで初めてのようにビクビクしちゃうことがあります。まま、私のもともとの性質もあるのかもしれないけど。そういうところ、もっと気楽になりたいと思ったり・・・。誰かが教育は洗脳だって言ってたけど、それって当たってるな〜と思ったり。

もし自分に子供がいたら、きっと私は色んなことを期待してしまうと思います。「こういう人になってほしい」と、理想?に向かって、それこそしつこく洗脳を試みると思う。でも、「洗脳」って言うからには、洗う前の脳があるはずで、それはこの場合は生まれつきの性質になるのでしょうか。そうやって私が頑張っても、子供は知らないところでさらに洗脳されるんだろうし、そうなると結果的に出来上がった子供の性格を母親として受け入れ愛することが課題になりそうですね。うーん、自分の母のことをちょっと思い出しましたが、母にも期待があったんだろうし、私はきっとそれを随分裏切ったんだろうなあ。ちょっと悪かったかなあ。でもまあしょうがない(笑)。

ただ、自分が「洗脳」され続けて無抵抗にいまの自分になったとも思いたくないんですね。私、特に10代の後半は「自分の性格は自分に責任がある。生まれつきの性質も躾も教育もクソくらえだ〜」って思ってたし・・・。あの頃はどういう自分に自分がなりたいのか一生懸命イメージして、そのイメージと実際の自分のギャップに疲れたりしながらも、人格形成は自分でやる〜って思っていました。ああ、いま言ってみると恥ずかしい・・・。いまでは逆に自分では責任取りたくないですけどね。(笑)

ふと思い出しましたが、「性格は先天的なものか後天的なものか」と考え始めたのは学校で「性善説・性悪説」を習ったのがキッカケだったかもしれません。ちなみに、私はそのどっちにも反対なんだけど、私が信じているキリスト教の教えではアダムとイブが罪を犯して以来、人間は生まれたときにすでに罪を背負っているんですねえ。それもなんか納得いかないけど、かと言って自分が生まれつきの善とは間違っても言えない程度にワルイことをしてきているので、堂々と反論もできません(まま、クリスチャンである限り聖書に反論を試みるべきでもないんだけど)。もしも私が生まれたときは善でも悪でもない「無」とか「純」のようなものだったとすると、家でも学校でも社会でも「いい子でいるように。いい人になるように」って教わるにもかかわらずワルサをしてしまうのがあんまり説明できない気もします。じゃあやっぱり「性悪説」が正しいのか???

・・・っと、いつまでも終わりそうにないので、今回はこの辺でバトンタッチしようと思います。次はうにが書いてくれることになっています。女の子二人のお母さんのうにには、子供の成長をじかに見ている人ならではの考えがあるかもしれないですね。それでは宜しく〜。

(はじまり) 矢印 niko
にこ
矢印 uni
うに
(c) 2006 Niko & Uni. All rights reserved.